エピソード
vol
64

強い帰宅願望のあったお母様が、おだやかな、ご自分らしい暮らしを手にされるまで

2016年10月04日

ホームでの食事や入浴を拒否することで、「家に帰りたい」という強いご要望を表されたA様。厳しい現実を目の当たりにしたスタッフが、人と人はどのように関われるのか、関わったらよいのかを毎日考え続けた結果……。

私(お客様相談担当I)がご相談を受けた事例を紹介いたします。

ご入居までは、すんなり。その後に待っていた厳しい現実

A様は三姉妹のお母様。娘様たちはそれぞれ独立され、ご主人様は住宅型のホームへご入居されたので、ご自宅で一人暮らしをされていました。ところが、認知症の症状が少しずつ出始めたため、軽度の認知症の方が利用するグループホームにご入居されることに。それは、「共同生活をすることで、認知症状が少しでもよくなってくれたら…」という娘様の願いからでした。

しかし、グループホームで打ち解けることができず、ポツンとお一人でいることが多かったというA様は、認知症がむしろ進んでしまったため、入居からわずか2週間後に私たちは娘様から転居についての相談を受けました。

娘様たちは、「母が心配で一人にすることはもうできない。ベネッセのホームなら、多くの人と日々関わる中で、お友達もできるのでは」と期待を寄せてくださいました。
そこで考えたのは、新しく開設したばかりでまだご入居者様が少ないホームへのご入居。すでにできあがっている友達の輪に加わるのは、抵抗感が大きいし、誰でも勇気がいるもの。でも、自分が「スタート時」からのメンバーで少人数だったら打ち解けられるかもしれないと考えました。

また、建物や居室が新しいことも、お気持ちが動くきっかけになればと思いました。実際、娘様の「新しいおうちに行きますよ」という言葉にお母様の気持ちも動いていたようで、すんなりとご入居が決まりました。
ところが、ご入居の初日、A様がスタッフに示されたご意思は、 「私は家に帰ります。食事も入浴もお断りします」というものでした。

毎日ひとつずつ、トライを繰り返して

A様は、ホームのお食事にはまったく手をつけられず、ご家族様が買ってこられたお菓子などを少し召し上がる程度。とにかく水分だけでもきちんと摂っていただこうというのが精一杯でした。
入浴は、お声かけをすると、「家へ帰る!」と廊下で寝そべって全力で拒否されたこともありました。

住み慣れたわが家を離れ、周囲には知らない人たちばかり。長年、ご自宅で自立した生活を送られてきたA様にとって、そのストレスは、どれほど大きかったことでしょう。もっとA様のことを知りたい、A様とお話ができるようになりたい。私たちにできることは何だろう? 藁にもすがる思いで、A様にお声をかけたときの表情やちょっとした仕草など、どんな小さなことでもスタッフ同士で伝え合いました。そして、お名前はどのようにお呼びすればいいか、どんな言葉で何時頃お声をかけるのがいいのかといったことを、一つひとつトライして確かめていきました。

そのうちに、わかってきました。苗字ではなく下のお名前で呼ばれるのを好まれること。また、スタッフによって受け答えのされ方も変わること…。
A様がよくお話をしてくださるスタッフがいることもわかりました。
そして、そのスタッフとなら、気の置けない会話ができるようになってきたことを機に入浴のお声かけをしました。

「少しだけ髪を整えませんか?髪を洗ってみませんか?」
「そうねえ、髪だけよ」
「はい、髪だけですね」
こうしたやりとりから、少しずつ洗えるところを増やしていきました。
初めてバスタブに入られたのは、ご入居から2ヶ月後のことでした。

家族には、なれないけれど… ホームだから、できること

初めてご入浴いただいた日から、ひとつずつ、日常の生活が送れるようになりました。食事も3食きちんとお召し上がりになりますし、お風呂も通常どおりに入られ、スタッフとも笑顔でおしゃべりされるようになりました。ホームのアクティビティにも参加されています。
ご入居当初の険しい表情はなくなって、自然な笑顔が見られるようになりました。それだけではなく、ご入居されて間もない方のお世話や、ときにはご相談に乗ってくださっています。
「家へ帰りたい」とおっしゃるご入居者様に「私もね、たいへんだったのよ」と体験談を話してくださることもあります。

A様のことを心配されていたご主人様もA様の表情がいきいきと変わってくる様子に安心され、「自分もこのホームで暮らしたい」とおっしゃり、転居されることになりました。

ご主人様は、お互いがマイペースでゆったり暮らせるように、お部屋の階を別々にするという新しいスタイルをお選びになり、A様と適度な距離感でお暮らしになっています。
娘様も2ヶ所のホームを訪問するというご負担が減り、訪問も増えました。
居場所を見つけたA様。お仕事やご家庭の調整をしながら定期的に訪問される娘様と同じホームで生活をしているご主人様とともに大切な家族の時間をお過ごしになっています。

ご自宅でできることはたくさんあるけれど、ホームにも、「ホームだからこそできること」もあります。ホームはご自宅ではないし、スタッフはご家族にはなれないけれど、ご家族のかわりとなってひとつずつ関係を積み重ねていくことで、「ご自分らしい暮らし」を実現できたエピソードでした。
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